日本史の未遂犯 ~明治新政府の重鎮・岩倉具視を襲撃した男~
日本史の実行犯 ~あの方を斬ったの…それがしです~スピンオフ【武市熊吉】
明治六年の政変
しかし、その頃には日本国内では政治情勢が大きく変動していました。
実は征韓論は「留守政府」で閣議決定された政策でした。「留守政府」というのは「岩倉使節団」が欧米歴訪中の臨時の政府であり、西郷隆盛や大隈重信、そして板垣退助らによって組織されたものです。
ところが、1873年(明治6年)の9月に岩倉使節団をすると、使節団と留守政府の間で征韓論を巡って対立が起きてしまいました。
使節団の岩倉具視と大久保利通、木戸孝允(桂小五郎)は、外征よりも国内の政治を優先することを主張し、征韓論に断固として反対しました。翌10月に両者はついに決裂し、征韓論を主張する西郷隆盛や板垣退助は、一斉に下野(官職を辞めて民間に下ること)してしまったのです。これを「明治六年の政変」といいます。
西郷隆盛や板垣退助を支持する武市などの士族は「日本国と国交を結ばない朝鮮国をそのままにしては、皇国(天皇が治める国=日本国)の恥辱になる」として、この政変に大いに憤りました。
上司の板垣退助を政府から追放された武市は「岩倉具視の陰謀」であると考えました。翌11月には、外務省十等出仕を依願退職しています。
退職をしたその日、武市は寓居としていた五郎兵衛町(現・中央区八重洲二丁目)の三河屋で弟の武市喜久馬と、同郷の中西茂樹と政治情勢について語り合いました。征韓論を巡る政変の始末を武市から聞いた2人は、ある結論に至ります。
「姦の姦たる者、岩倉具視を除くべし!」
武市はこれに同意したものの「時機を相待つ然るべき」として、2人を諭し留めました。
翌12月になると、武市の許には多くの同志が集い始めました。
武市熊吉、武市喜久馬、中西茂樹、山崎則雄、島崎直方、下村義明、岩田正彦、中山泰道、澤田悦彌太。
後に実行犯となる9人は、全員が土佐出身の高知県の士族でした。9人は毎日午後5時頃に、築地に付近にあった武市喜久馬の寓居に集まり、偵察の経過を報告して暗殺の計画を練り、岩倉具視の隙を狙い続けました。当時の武市の心情を吐露した書き付けには「愛国保護」「憂国の情」など、皇国の行く末を案じた言葉が残されています。
そして年が明け、時は1874年(明治7年)の1月14日を迎えます―――。
この日の午後4時頃、中西茂樹と中山泰道は外桜田で岩倉具視の馬車を見かけ、人力車を借りて追跡して赤坂の仮皇居(現・迎賓館赤坂離宮)に参内したところを見確かめました。中山泰道は現場に残り、中西茂樹は人力車で直ちに引き返し、いつもの会合に参加して武市たちに報告しました。
これを受けて、武市たちはついに決意します。
「これ天祐なり!吾輩らの宿望を達するは、今宵にあり!」
一同は武市喜久馬の寓居を出て、築地海軍省(現・松平定信旧居浴恩園跡)の脇道を通り、山下町(やましたちょう:現・泰明小学校の周辺)を過ぎて、江戸城を右手に見ながら霞ヶ関を越え、ドイツ大使館(現・国立国会図書館)に辿り着きました。そこで手筈通りに9人は隊を分けました。
武市は下村義明と共に麹町の裏通りを、岩田正彦、澤田悦彌太は麹町の表通りを、武市喜久馬と中西茂樹と島崎直方は永田町の通りを通って、予定の襲撃現場で落ち合いました。
この時、山崎則雄は一同より先に武市喜久馬の寓居を出て、山下町から人力車に乗って、現場の中山泰道と合流をして、襲撃を実行に移すことを伝えています。